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[15] how to watch cbs sports live watch tv 投稿者:Ozreb 投稿日:2019/11/26(Tue) 21:51  

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[14] クルミ詰まった縄文の籠 南相馬・鷺内遺跡、完全な状態で初出土 投稿者:ヤマト姫 投稿日:2018/11/30(Fri) 22:33  

クルミ詰まった縄文の籠 南相馬・鷺内遺跡、完全な状態で初出土
http://www.minyu-net.com/news/news/FM20181130-329857.php

縄文時代晩期(約3千年前)を中心とした福島県南相馬市鹿島区寺内の土坑群「鷺内(さぎうち)遺跡」から、数百個のオニグルミが詰まった状態の籠が出土した。保存状態が非常に高く、クルミが詰まった完全な状態での出土は全国で初めて。

 市教委が29日発表した。遺跡からは計12個の籠やざるが出土しており、これまで最多だった三島町の荒屋敷遺跡を上回る、県内最多の出土となった。

 考古学が専門の山田昌久首都大学東京教授は「縄文人の生活様式の全容解明に向け、非常に貴重な史料になる」としている。

http://www.minyu-net.com/news/news/FM20181130-329857.php


[13] “たとえ親子でも内容漏らすな”「忍者の誓約書」見つかる 投稿者:ヤマト姫 投稿日:2018/11/27(Tue) 20:19  

“たとえ親子でも内容漏らすな”「忍者の誓約書」見つかる
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181127/k10011725551000.html?utm_int=all_side_ranking-social_002

“親子といえども忍術書の内容などを漏らしてはならない”。
江戸時代の「忍者の誓約書」が今月、三重大学に預けられた資料の中から見つかり、研究者は「秘密を守る忍者の厳しい姿が伝わる貴重な資料だ」としています。

三重大学に預けられたのは「敬白天罰霊社起請文前書」(けいびゃく てんばつれいしゃ きしょうもんまえがき)という古文書で、三重県伊賀市の旧家に残されていました。

古文書を保存していた旧家は江戸時代、この地方を治めた大名の藤堂家に仕えた忍者の子孫にあたり、今月、三重大学と古文書を預ける契約を結びました。

三重大学国際忍者研究センターの高尾善希准教授によりますと、古文書は、およそ300年前、当時の木津伊之助という忍者が忍術を悪用しないことなどを師匠に誓った誓約書だということです。

高尾准教授によりますと、この中には「喩親子兄弟たりといふ共他見他言仕間敷候」(たとい おやこ きょうだいたりというとも たけんたごんつかまつる まじくそうろう)と書かれ、親子といえども忍術書の内容などを漏らしてはならないと厳しく戒めるなど、6つの約束が記されているということです。

そのうえで、もし誓約を破った場合には子孫の代まで神にたたられることになると強い言葉で警告する言葉も書かれているということです。

高尾准教授は「忍術を学ぶ江戸時代の忍者の姿がうかがえるだけでなく忍者の秘密を守る態度が非常に厳しく貫かれていたことがわかる貴重な資料だ」と話していました。

この子孫の家には、このほか、130点余りの古文書が残され、これらも三重大学に預けられたことから高尾准教授らは今後、解読を進めることにしています。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181127/k10011725551000.html?utm_int=all_side_ranking-social_002


[12] 家康の駿府城に秀吉が天守台…金箔瓦で威光示す 投稿者:ヤマト姫 投稿日:2018/10/17(Wed) 21:42  

家康の駿府城に秀吉が天守台…金箔瓦で威光示す
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20181016-OYT1T50103.html?from=yartcl_blist

 徳川家康の居城だった駿府城(静岡市葵区)の跡から、豊臣秀吉が家臣に命じて築かせた天守台の石垣と大量の金箔きんぱく瓦が見つかった。静岡市が16日、発表した。天下統一を果たした秀吉によって家康が駿府から江戸に移された後、つくり直された城で、豊臣政権の威光を示す狙いがあったとみられる。

 駿府城を巡っては、家康に代わって1590年、秀吉の重臣・中村一氏かずうじが入城したとの記録が残っていた。静岡市の発掘調査で今回、この時代の石垣などが見つかり、一氏が城を築いたことが初めて確認された。

https://www.yomiuri.co.jp/culture/20181016-OYT1T50103.html?from=yartcl_blist


[11] 武田信虎像 甲府駅前に設置へ 投稿者:ヤマト姫 投稿日:2018/10/08(Mon) 15:17  

武田信虎像 甲府駅前に設置へ
https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20181008/0019702.html

戦国武将・武田信玄の父、信虎が甲府に館を築いてから来年で500年を迎えるのを前に、信虎の銅像がJR甲府駅前に設置されることになりました。

武田信玄の父、信虎が甲府に館を築いて来年でちょうど500年を迎えます。
この「開府500年」を前に、甲府商工会議所は信虎の功績も知ってもらおうと、信虎の銅像をJR甲府駅の北口広場に設置することになりました。
銅像は、信虎の菩提寺である甲府市の大泉寺に所蔵されている重要文化財の肖像画をもとにデザインされ、高さ2メートル余りの、けさをまとった出家姿となる予定です。
南アルプス市の造形作家、河野和泉さんが制作を進めていて、ことし12月に除幕式が行われ、南口の信玄と合わせて甲府駅の南北に武田親子の銅像がそろうことになります。
甲府商工会議所は「武田信虎は信玄に追放されるなどいいイメージを持っていない人もいるが、甲斐統一を成し遂げた偉大な人物。信虎の功績を多くの人に知ってもらいたい」としています。

https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20181008/0019702.html


[10] 縄文土器に触ることができる初の展示会、開催へ 投稿者:ヤマト姫 投稿日:2018/10/08(Mon) 11:38  

縄文土器に触ることができる初の展示会、開催へ
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20181005-OYT1T50061.html?from=yartcl_blist

東京都三鷹市内から出土した縄文土器に触ることができる展示会が9日〜16日、三鷹市役所1階ロビーで開催される。三鷹市では、2013年から毎年考古学に関する展示会を開催しているが、直接触ることができる展示は初の試み。

 三鷹市によると、井の頭池や野川などの湧水源に恵まれた市内には、市立第五中学校遺跡(新川)や井の頭池遺跡群(井の頭)など計55の遺跡が見つかっている。縄文時代中期(約5000〜4000年前)、この地域は日本有数の文化の中心地だったという。

 同展では、ほぼ完形品の縄文土器12点を展示し、うち原遺跡(大沢)出土の勝坂式土器など9点に素手で触れることができる。会場にはインストラクターが常駐し、土器の鑑賞法や触れ方について解説する。中には持ち上げてよいものもあり、本物の縄文土器を持った姿を写真におさめることもできる。市の担当者は「土器の手触りや重みを通じて、歴史を身近に感じてほしい」と話している。

 13日には、市役所の隣にある市公会堂さんさん館で明治大学の矢島國雄教授(博物館学)を招き、土器に触れる醍醐だいご味などについて語る講演会が開かれる。会の後半には市役所に移動し、矢島教授の解説を聞きながら土器に触れる。

 講演会は午後2時〜同4時。参加無料。定員は当日先着80人。展示時間などの問い合わせは市生涯学習課(0422・45・1151)。

https://www.yomiuri.co.jp/culture/20181005-OYT1T50061.html?from=yartcl_blist


[9] 武田と北条の合戦再現する催し 投稿者:ヤマト姫 投稿日:2018/10/07(Sun) 18:48  

武田と北条の合戦再現する催し
https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20181007/0019687.html

戦国時代に甲斐の武田氏と小田原の北条氏が激突した「三増峠の戦い」を再現する催しが合戦場所の神奈川県愛川町で行われました。

愛川町の三増地区はおよそ450年前の戦国時代、甲斐の武田信玄と小田原の北条氏康の軍が合戦を行った場所で、この「三増峠の戦い」は戦国時代の最大規模の山岳戦とも言われています。
催しは、戦いで亡くなった人を慰霊するとともに、地域の歴史を多くの人に知ってもらおうと、地元の住民で作る団体が毎年行っています。

7日はかっちゅう姿の15人が武田・北条の両軍の武将になりきり、刀や弓、それに鉄砲を使って立ち回りを演じ、4000人余りが亡くなったとされる激戦の様子を再現しました。
また、かぶとやよろいのレプリカを着て記念撮影ができるコーナーも設けられ、親子連れたちでにぎわっていました。

家族で訪れた小学2年生の男の子は「歴史にはまったばかりなので、とてもおもしろかったです。1人1人が細かい動きをしていて、かっちゅうもリアルでした」と話していました。

https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20181007/0019687.html


[8] 神代文字の使用を裏づける!?、弥生時代の硯も発見された九州筑後の平塚川添遺跡 ・・浮かぶ先進性 三角縁神獣鏡発見で注目 投稿者:ヤマト姫 投稿日:2018/09/07(Fri) 16:19  

平塚川添遺跡
浮かぶ、筑後平野の先進性 三角縁神獣鏡発見で注目 福岡・朝倉
https://mainichi.jp/articles/20180906/ddl/k46/040/424000c?inb=ra

弥生時代中期から古墳時代初頭にかけての大規模環濠(かんごう)集落遺跡、平塚川添遺跡(福岡県朝倉市、国史跡)についてのシンポジウムが同市内で開かれた。「卑弥呼の鏡」との説もあり、同遺跡付近で出土したとみられる三角縁神獣鏡が最近発見されたことが報告され、同遺跡一帯の重要性が改めて浮かび上がった。

 平塚川添遺跡は筑後川の支流・小石原川沿いの低湿地にある。1991〜93年に発掘調査。17ヘクタールの範囲で最大7重の環濠や柵列を巡らせた中に、竪穴住居跡300カ所や大型掘立(ほったて)柱建物跡が見つかった。住居、工房、倉庫の用途ごとの区画が存在したとされる。大量の土器や木製品のほか、玉類などもあった。遺跡の最盛期は邪馬台国時代に当たるため、「魏志倭人伝」に登場する「国」の存在を示す遺跡として知られている。

 朝倉市教委文化財係の中島圭さんは、遺跡一帯の地形に着目した。朝倉市では北部の山地から筑後川に向けて小石原川などの支流が流れるため扇状地が発達している。川に沿った高い台地に弥生〜古墳時代の遺跡が多数見つかる。ところが平塚川添遺跡は低湿地で、台地は遺跡の東部に広がる。中島さんは「国の中心は台地にあって、平塚川添遺跡はむしろ新興の開拓地だったのでは」と推測した。

 それをうかがわせるのが発見された三角縁神獣鏡だ。旧福岡藩士の家に所蔵していたもので、今年3月に朝倉市に寄贈された。100年以上前の絵図で存在は知られていたが現物は所在不明だった。出土地点は文献から、同遺跡東部の台地にある、平塚大願寺遺跡の方形周溝墓だった可能性が高いという。これまで同市内で唯一の三角縁神獣鏡の出土地だった神蔵(かんのくら)古墳も、この台地にある。平塚川添遺跡では銅鏡や銅矛の破片しかなく、首長の墓は確認されていない。一方、三角縁神獣鏡は初期大和政権が各地に配布した威信財とされ、地域の首長墓の存在を示す。

 中島さんは「平塚川添遺跡は氷山の一角。台地にはまだまだ遺跡が広がっている」と想像する。武末純一・福岡大教授も「平塚川添遺跡の全容はまだ分かっていない。三角縁神獣鏡と共に葬られた人が当時どこにいたのかも探してほしい」と今後の調査に期待を寄せた。

 朝倉市の隣りの筑前町では近年、弥生時代の硯(すずり)が相次いで発見され、文字使用の可能性を巡って注目されている。同町の遺跡では「王墓」とみられる墳丘墓や銅製品の鋳型も確認されている。平塚川添遺跡を巡る調査研究の進展は、当時の筑後平野の先進性を探る上で鍵を握っているのかもしれない。【大森顕浩】

https://mainichi.jp/articles/20180906/ddl/k46/040/424000c?inb=ra=comtop_latestnews_02


[7] 「縄文展」来場者30万人超え 国立博物館でセレモニー 投稿者:ヤマト姫 投稿日:2018/08/30(Thu) 16:40  

「縄文展」来場者30万人超え 国立博物館でセレモニー
https://www.asahi.com/articles/ASL8W5TKRL8WUKJH005.html?iref=comtop_latestnews_02

東京国立博物館(上野公園)で開催中の特別展「縄文――1万年の美の鼓動」(朝日新聞社など主催)の入場者が30万人を超え、30日、記念のセレモニーがあった。茨城県土浦市のパート、小松崎広子さん(66)に、銭谷真美館長から図録や会場内特設ショップで人気のグッズ、土偶ペンライトや手ぬぐいなどが贈られた。

 小松崎さんは同県内に住む長女の大塚吏美さん(39)、孫の友貴さん(8)、春翔さん(6)とともに訪れた。以前から縄文には興味があり、「特に作りが美しい火焰(かえん)型土器を見たいです」と話した。

 同展は「縄文の美」をテーマに、北海道から沖縄まで、全国各地から出土した土器や土偶約200件を展示。縄文時代の国宝全6件が史上初めて一堂に会して話題を呼んでいる。

 縄文を巡っては、近年、フリーペーパーの発行や映画の公開などがあり、展覧会は若者や家族連れも含めた幅広い世代でにぎわっている。

 特別展「縄文」は9月2日[日]まで。開館時間は午前9時30分〜午後5時。8月31日[金]と9月1日[土]は午後9時、同2日[日]は午後6時まで(入館はいずれも閉館の30分前まで)。一般1600円、大学生1200円、高校生900円、中学生以下無料。問い合わせはハローダイヤル(03・5777・8600)。

 詳細は公式サイト(http://jomon-kodo.jp/別ウインドウで開きます)。公式サイト上には各地の所蔵先が「地域の宝」である展示品や地元の情報を紹介する「縄文ご当地ビデオレター」や、土偶に塗り絵ができる「マイ土偶」の企画もある。

https://www.asahi.com/articles/ASL8W5TKRL8WUKJH005.html?iref=comtop_latestnews_02


[6] 甲賀は「信長に焼かれなかった」…伊賀市長絶賛 投稿者:ヤマト姫 投稿日:2018/08/25(Sat) 14:36  

甲賀は「信長に焼かれなかった」…伊賀市長絶賛
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20180821-OYT1T50077.html?from=yartcl_outbrain1

三重県伊賀市の岡本栄市長と滋賀県甲賀市の岩永裕貴市長らが20日、両市に残る忍者ゆかりの文化財などを視察した。伊賀市東湯舟の手力神社では、参拝した多くの人が願いを布に書いて結びつけた鈴の緒の大きさに驚いていた。

 昨年、4月には両市が提案した「忍びの里 伊賀・甲賀―リアル忍者を求めて―」が日本遺産に認定され、6月には両市と地元の3観光協会が「忍びの里伊賀甲賀忍者協議会」を結成したが、互いの現地視察は今回が初めて。

 この日は、両市の市長と教育長、観光協会長ら約20人が甲賀市で、油日神社に集合。午前中は檜尾神社や大鳥神社などを巡り、薬学の知識を持っていた甲賀忍者の伝統を紹介する市くすり学習館を見学し、薬膳料理の昼食を取った。

 午後は伊賀市に入り、手力神社を視察。氏子総代の伊室春利さんが「この近くに城館を構えた藤林長門守が、火筒やのろしを奉納したと伝わる。秋の大祭では現在でも花火が奉納される」と紹介した。本殿前に下げられた鈴の緒は、藤林をはじめとする伊賀忍者の祈りも込められているとされ、両市長は感慨深げに見入った。一行は忍者ゆかりの敢国神社、百地砦とりで跡なども巡った。

 岡本市長は「天正伊賀の乱で焼き尽くされた伊賀と違い、甲賀は織田信長に焼かれなかったので、中世以前の文化が残っている。目の前に忍者が現れそうな雰囲気がある」と絶賛。岩永市長も「何度も手力神社の前を車で通っているが、しっかり話を聞けたのは初めてで勉強になった。互いの歴史を知り、両市一体の観光ルートづくりを進めたい」と話した。

https://www.yomiuri.co.jp/culture/20180821-OYT1T50077.html?from=yartcl_outbrain1


[5] 高知県立大焚書 知の機会奪う 職員「移行へダイエット」 投稿者:ヤマト姫 投稿日:2018/08/17(Fri) 23:10  

高知県立大焚書 知の機会奪う 職員「移行へダイエット」
https://www.kochinews.co.jp/article/207844/

県費で購入 他館は再利用
 「知の拠点」をうたって高知市永国寺町に整備が進められている県立大学の新キャンパス。その主要施設の一つである新しい大学図書館で、利用価値のある本が無残に、大量に焼却されていた。長年にわたって県費で購入して蓄積してきた図書財産。燃やして二度と読めなくするという“焚書(ふんしょ)処置”は、それらの本と出合う機会を奪ったことになる。


 吉川弘文館が1979年から18年がかりで刊行した国内最大級の歴史百科事典「国史大辞典」全17冊は、新品で約30万円し古書価格で数万円の値がつく。同様に「日本国語大辞典(2版)」全14巻(小学館、2000年)も高値で引き合いがある。いずれも高知県立図書館が、県内の市町村立図書館に対して、「そろえておきたい参考図書」などとして購入を勧めている本だ。

 農山漁村文化協会が1986〜92年に出した「日本の食生活全集」全50巻は各巻3、4冊ずつが焼却された。第39巻は「高知の食事」(高知県立大の松崎淳子名誉教授他編)だった。江戸中期の土佐藩御用絵師、中山高陽の紀行集(57年、高知市教育委員会)をまとめたのは国文学者の清水孝之元高知女子大教授。膨大な数の各大学史と一緒に、高知短大の20年史や高知女子大の30年史も燃やされている。...

https://www.kochinews.co.jp/article/207844/


[4] 弥生時代に謎の大量殺戮? 大量の人骨をDNA分析、弥生人のルーツたどる 鳥取・青谷上寺地遺跡 投稿者:ヤマト姫 投稿日:2018/08/17(Fri) 22:01  

弥生時代に謎の大量殺戮? 大量の人骨をDNA分析、弥生人のルーツたどる 鳥取・青谷上寺地遺跡
https://www.sankei.com/west/news/180815/wst1808150024-n1.html

鳥取県埋蔵文化財センター(鳥取市)や国立科学博物館(東京都)などが連携し、鳥取市青谷町の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡から出土した弥生時代後期(2世紀後半〜3世紀)の人骨のDNAを分析する研究を始めた。

 弥生後期は、大陸や朝鮮半島からの渡来人と在来の縄文人の混血が進んだ時期と考えられるが、人骨の出土例は全国的にも少なく、DNAが本格的に分析されるのは今回が初めて。日本人の成り立ちの解明につながる成果が期待される。

 研究には国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)も連携する。同センターが保管する頭蓋骨など人骨約40点からサンプルを採取。ミトコンドリアDNAを分析して塩基配列の特徴を調べ、世界のヒト集団の特徴と比較し、同遺跡の弥生人のルーツをたどる。

 また、血縁関係・親族構造など集落内での人と人のつながりや、髪や瞳の色、直毛か、毛深いかといった身体的特徴の解明も試みる。最終的な研究成果は、今年度末に発表される予定だ。

低湿地にある同遺跡は、大気から遮断されて腐敗菌の繁殖が抑えられたことなどから、保存状態の良い遺物が多数出土し「弥生の博物館」と呼ばれる。中心部の溝からは、老若男女の人骨が少なくとも109体分、散乱した状態で出土。鋭い武器で切られたり、刺されたりした殺傷痕が残るものもあった。戦闘など凄惨(せいさん)な行為があったと考えられるが、その背景は明らかになっていない。

 「魏志倭人伝」「後漢書」などの書物には、この時期に「倭国大いに乱る」とする記述もある。同センターでは「大量殺戮(さつりく)の謎にせまれれば、大きな成果となる。『倭国乱』で何が起きたかを示す、唯一の痕跡になる可能性がある」と話している。

https://www.sankei.com/west/news/180815/wst1808150024-n1.html


[3] 韓国司法 日本の対馬からの盗難仏像と認識しながら、裁判の検証と証し自国の所有物の如く菩薩坐像を検分 投稿者:ヤマト姫 投稿日:2018/08/08(Wed) 17:53  

対馬の盗難仏像に現場検証…き損が深刻
http://japanese.joins.com/article/811/243811.html?servcode=A00&sectcode=A10&cloc=jp|main|ranking

2012年対馬観音寺で窃盗犯によって韓国に持ち込まれた浮石寺(プソクサ)金銅観世音菩薩坐像の所有権控訴審で裁判所が仏像現場の検証を実施した。

大田(テジョン)高裁第1民事部は6日午後、大田国立文化財研究所で金銅観世音菩薩坐像の現場検証を行った。仏像保管状態とき損状態を確認し、仏像の真偽を確認するためだ。

現場検証結果、仏像のき損状態が深刻であることが分かった。仏像の顔は黒い色に変色し、左手の甲は一部が落ちたような跡が発見された。また、仏像の所々が緑色に錆がつき、腐食された跡が発見された。

国立文化財研究所関係者は取材陣に「現在としては保存処理する権限がなく、国家間紛争の余地があり手を付け難い」と話した。現在、韓国では盗難品を保存処理させる法律がなく、仏像は別途の保存処理なしで封印された状態だ。

http://japanese.joins.com/article/811/243811.html?servcode=A00&sectcode=A10&cloc=jp|main|ranking


[2] 倭国を造った人々・・・・倭国、大和国とヘブライ王国  より 投稿者:ヤマト姫 投稿日:2018/08/07(Tue) 12:06  

ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう


倭国を造った人々
https://blog.goo.ne.jp/n_ishii517/e/6e8e14dcda0705aceaf7a62a670a4f48

 予てからこのブログで、「我が国の皇室は、古代イスラエルの失われた十支族の内のある支族が、紀元前に倭国へ渡来して大和朝廷を造った」という話をしてきた。最近読んだ講談社発行、相見英咲氏著「倭国の謎・知られざる古代日本国」に、非常に興味有る記述があった。

氏は大国主命が始めに畿内を治めていたが、後に現在の皇室によって奪われたと考えている。大きな根拠として「神武東征前にニギ速日命が天の磐船に乗って難波に降臨し国を開いていた」と言う記述と、「その地を虚空(そら)見つ倭(ヤマト)の国と言う」と言う記述から、皇室が大和の地を奪って、大和朝廷を名乗ったとしている。更に「古事記で第十代崇神天皇が(ヤマトを奪われた)大国主命の祟りから逃れるため、厚く祭ったことがその証である」としている。

これらの氏の考えは、私が展開してきた話といくつもの共通点がある。小生は「皇室がイスラエルの神・ヤハウエの民の末裔である事から、‘ヤハウエの神の民’と言う意味の、‘ヤァ・ウマトゥ’を自らの氏族の名としてヤマトと名乗り、倭国を統一後大和朝廷と称した」と言う考えを度々述べてきた。そして「出雲族も同じイスラエルの失われた支族である」という考えも述べてきた。

氏が言う様に奈良盆地を`ヤマト'と名づけたのは、饒速日命(物部氏)であることから、饒速日命もヤァ・ウマトゥの末裔であると考える事が可能である。言いかえると出雲族・大国主命・物部氏が繋がり、これらが皆イスラエルの失われた支族である可能性があると言える。

さらに氏の著書の第4章「皇室の真正系図と記紀神話」で、私の仮説と合致する記述があった。そのまま記すと「皇室は北方アジア民族・ツングース系民族の、扶余・高句羅・百済と同系の支配者層から分れ出たものであろう」と述べている。

イスラエルの或る支族はシルクロードを経て、一時天山山脈の麓・ヤマト(ヤァ・ウマトウが留まった土地だから名付けられた名であり、奈良の大和と同じ)に留まったと言う話が、M・トケイヤー氏の著書「日本・ユダヤ封印の古代史」に記載されている。この一族が更に東の朝鮮半島に移った話が、氏が述べるツングースの話になっているのであろう。

つまり二つの話は同じ話であり、表現が違うだけであると考える。私は「皇室や出雲族、越の国を造った一族などを、イスラエルの失われた支族であるとし、夫々百済や高句羅などを経由し、夫々の海の道を経て倭国へ渡来した」と言う話を展開している。

相見氏はこの章の中で更に重要な説を展開している。これもそのまま記すと

「ツングース系民族の中には、更に朝鮮半島を越えて日本列島に入ってきた者も居た。その時期は1世紀前後と推測されよう。皇室・物部氏・尾張氏・出雲臣氏・天若彦神族・中臣氏・大伴氏・忌部氏などは九州島に入った。山陰の出雲に入った者も居て、スサノオ神族・アジスキ高彦神族などがそれだ。」

氏が述べているこれら氏族の数を数えると、なんと十氏族になるのだ。私の考えていた氏族の名が全て一致するわけではないが、失われた十支族が全て倭国へ渡来した可能性が伺えるではないか。藤原氏や秦氏、蘇我氏など古代倭国で名を成した氏族は、これらの氏族の名が変わった可能性もある。中臣氏が藤原氏になったように。

氏の展開する話にはイスラエルの影は微塵もないが、視点を変えると以上のような見方が可能になり、私の仮説に勇気を与える話となる。

氏の展開する倭国の謎解きは大変楽しく、他にも参考になる話も多い。まだ読書半ばであり、読み終えたら今一度紹介したいと思っている。

https://blog.goo.ne.jp/n_ishii517/e/6e8e14dcda0705aceaf7a62a670a4f48


[1] 【萌える日本史講座】 蘇我氏のルーツは渡来人? “古代の大悪人”か時代の変革者か  投稿者:ヤマト姫 投稿日:2018/08/07(Tue) 10:20  

【萌える日本史講座】
蘇我氏のルーツは渡来人? “古代の大悪人”か時代の変革者か 
http://www.sankei.com/west/news/180807/wst1808070003-n1.html

「大化の改新」として覚えている方も多いだろう。古代史最大のクーデター、乙巳(いっし)の変(645年)。蘇我入鹿(そがのいるか)が暗殺され、本家が滅亡した蘇我氏。奈良県明日香村では平成27年、この政変で自害に追い込まれた入鹿の父、蝦夷(えみし)の墓ともいわれる小山田(こやまだ)古墳が発掘され、蘇我氏の存在がクローズアップされた。一族のルーツは奈良を拠点とした「倭人」というのが学界では有力だが、「朝鮮半島からの渡来人だった」との新説が打ち出された。文楽や浄瑠璃(じょうるり)では古代の大悪人として語られる一方、時代の変革者ともいわれる蘇我氏。果たしてその実像は−。(小畑三秋)

 天皇の外戚として栄華

 渡来人説を唱えるのは、奈良県文化財保存課の坂靖(ばん・やすし)課長補佐。県立橿原考古学研究所の研究員当時は県内の遺跡発掘を長年手がけ、1年近く韓国国立文化財研究所で研修するなど、日韓の考古学に詳しい。

 新著「蘇我氏の古代学」(新泉社)で坂さんは、「蘇我氏の出自を考古学的に検証すると、飛鳥の開発を主導した渡来人にたどりつく」とし、出身地を朝鮮半島南西部の全羅道地域との説を唱える。「飛鳥時代を切り開くうえで歴史的に大きな役割を担った」と話す。

蘇我氏は稲目、馬子、蝦夷、入鹿が有名で「蘇我四代」と呼ばれる。日本書紀で政治の表舞台に最初に登場するのが稲目。第28代、宣化(せんか)天皇の時代に大臣となり、娘の堅塩媛(きたしひめ)を欽明天皇のもとに嫁がせ、のちの用明、推古天皇が生まれたことで外戚として権力基盤を築いた。

 稲目の子の馬子は聖徳太子とともに政治の実権を握り、第32代、崇峻(すしゅん)天皇を暗殺するなど独裁色を強め、蝦夷・入鹿父子の頃に絶頂期を迎えた。2人は自らの邸宅を「宮門(みかど)」、子供らを「王子」と呼ぶなど、天皇なみに振る舞ったという。

 しかし、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=のちの天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、宮殿の儀式の際に天皇の前で入鹿を殺害、邸宅に逃げ帰った蝦夷も自害し蘇我本家は滅亡した。この乙巳の変を機に大化の改新という政治改革が進められ、天皇を中心とする中央集権国家の道を歩むようになった。

 カギは朝鮮半島南西部「全羅道」

 日本書紀は蘇我氏の横暴をことさら強調するが、朝鮮半島から仏教や先進技術を取り入れて国際国家にしようと尽力した立役者だったとする見方が、研究者の間で広がっている。

こうしたなか、文献だけでなく出土遺物から蘇我氏の姿に迫ろうとしたのが坂さん。「蘇我氏の古代学」の「はじめに」では、「文献資料については専門外だが、あえてここでは大胆に考古学と文献資料を結びつけた。結びつけないと蘇我氏は解明できない」と記し、多角的なアプローチを試みた。

 平成16年の韓国への1年近い研修では、渡来人の出自を研究テーマとし、現地の遺跡や遺物を丹念に調査。韓国と奈良盆地の土器などを比較・研究した結果、明日香村北部を中心とする飛鳥地域では5世紀半ば以降、朝鮮半島南西部の全羅道とそっくりな土器が多いことに着目した。

 飛鳥地域は5世紀頃、ヤマト政権の中心地ではなかったが、全羅道地域から盛んに人々が渡ってきたことが浮かび上がった。坂さんは「5〜6世紀に密接な関係があった百済と倭国をつなぐ役割を果たしたのが、全羅道を拠点にした交易集団。そのなかで、飛鳥に移り住んだのがのちの蘇我氏になった」と推測する。

 “未開の地”を開拓

 飛鳥地域はもともと湿地帯で住みにくく、5世紀ごろまでは開発も進んでいなかった。しかし、こうした不便な土地を与えられた渡来人たちが、大陸の先進技術を生かして開発。経済だけでなく政治的にも実力をつけ、稲目の時代に権力の中枢に入り込んだという。

「渡来人としての技術と生産力を権力の源泉とし、外交でも実力を発揮。新しい時代を萌芽させたのが蘇我氏だった」と坂さん。明日香村で発掘された国内最大級の方墳、小山田古墳(一辺70メートル)こそが、一族の栄華の礎を築いた蝦夷の墓だと推測する。

 ただし、蘇我氏は渡来人ではなく奈良盆地出身の倭人との説は歴史研究者の間では有力だ。第8代・孝元天皇のひ孫の武内宿禰(たけうちのすくね)を祖とするとの伝承があり、明日香村に隣接する奈良県橿原市には曽我町という地名も残り、この一帯が本拠地だったとされる。

 ただし、こうした説を裏付ける根拠は乏しい。坂さんは「出土遺物を通じて出自をたどる研究はほとんどなかった。遺物から見ると、全羅道の可能性が高い」と指摘。「正史としての日本書紀だけでは歴史は分からない。蘇我氏の果たした歴史上の役割を客観的にみる必要がある」と話した。

http://www.sankei.com/west/news/180807/wst1808070003-n1.html


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